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絵から見る江戸、明治~町火消しの誕生

都営地下鉄大江戸線と浅草線大門駅、及びJR線浜松町駅乗り換えの地下コンコースに、芝大門振興会の提供による錦絵、更に有志による町火消しの絵、明治の有楽町、汐留付近の写真が常設展示されています。

モノレールへの乗換え等、このコンコースを利用され、ご存知の方も多いかと思いますがご紹介します

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(芝神明宮の図、安藤広重(3代目)の画)

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(芝大門前の画、梅堂国政の画)

行列や町の建物などが良く描かれています。

こちらは銀座ですが、銀座6丁目の松坂屋建替え工事現場の囲いに明治の銀座5,6丁目を描いている絵がありますのでご覧下さい。

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昭和以前の銀座5、6丁目は尾張町と呼ばれていました。鉄道馬車が走っています。銀座4丁目交差点は、その当時、「銀座のおわり、尾張町のはじまり」と言い表されていたそうです。

大門駅の地下コンコースには「江戸消防記念会監修」による町火消の紹介もあります。少々漫画調ですが壁面に展示されています。組名や江戸纏い、競い合いが良く描かれています。

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江戸時代、1717年(享保2年)、徳川吉宗は、大岡越前守忠相を江戸町奉行に起用します。町奉行になった大岡忠相は、防火対策の強化を図り、町火消を創設し確立に努めます。町民に積極的な消火活動を促すように触書を出し、現場への駆けつけを義務化し、少ない参加には罰則もあったそうです。そして触書を出した5ヵ月後には町々の名主を集め、火消組合を作らせ、ここに「町火消」が誕生しました。

さらにこのコンコースには興味深い写真も展示されています。

1904年(明治37年)の東京で、築地(現在の朝日新聞社あたり)の上空から熱気球で有楽町、日比谷、溜池,愛宕、汐留、浜離宮近辺を撮影したものです。

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110年前の東京です。竹芝はありません。溜池は本当にため池だったのですね。汐留が当時の新橋駅でした。

新劇からミュージカル

築地小劇場跡の記念碑は、日比谷線築地駅から徒歩1分のところにあります。

同劇場は、関東大震災のあった翌年、1924年(大正13年)に土方與志、小山内薫氏によって設立された日本初の新劇の劇場です。建物は1階建て、ゴチック・ロマネスク様式で客席468名の照明、音響に工夫を凝らした劇場でした。

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         小劇場跡のレリーフ             1928年(昭和3年)の築地小劇場の前景

昭和に入り劇団は分裂をしますが、戦争へと向かう時勢の中、劇団はプロレタリア活動の拠点とみなされ、多くの劇団員が検挙されました。やがて1945年の東京大空襲で劇場は焼失します。

今日の新劇の基礎となり三大新劇といわれる文学座、俳優座、劇団民芸へと受け継がれ、戦後、青年座、演劇集団円、そして劇団四季などが生まれます。

当ホテルの近くに劇団四季の常設劇場がありますのでご紹介します。

劇団四季は、当初、学生による演劇集団でした。当時慶応大学の学生であった浅利慶太、日下武史氏らによって結成され、新劇を目指した劇団でミュージカル志向ではなかったそうです。

1971年以降、越路吹雪のミュージカル「アプローズ」の成功によって、その後様々なミュージカル劇を上演することになっていきます。「CATS」、「コーラスライン」などはロングラン公演で有名です。今やミュージカル劇といえば『劇団四季』といわれ日本を代表する劇団です。

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          劇場のある汐留カレッタ

電通四季劇場(海)   2002年オープン  〒105-0021 港区東新橋1-8-12

                 アクセス       地下鉄都営大江戸線 汐留下車1分

                              ゆりかもめ        汐留下車2分 

                 公演中 『ウィッキッド』

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               (ロングラン公演で15周年を伝える配布パンフレットより)

JR東日本四季劇場   1998年オープン  〒105-0022 港区海岸1-10-48

 (春)、(秋)         アクセス       都営地下鉄大江戸線、浅草線大門下車徒歩7分

                               ゆりかもめ            竹芝下車徒歩3分

                 公演中(春) 『ライオンキング』

                      (秋) 『マンマ・ミーア』

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JR東日本自由劇場   2003年オープン   〒105-0022 港区海岸1-10-53

                 アクセス        都営地下鉄大江戸線、浅草線大門下車徒歩7分

                               ゆりかもめ            竹芝下車徒歩3分

                 公演予定 『ふたりのロッテ』12/21~

※自由劇場はストレートプレイ(歌唱を伴わないスタイルの演劇)を上演する専用劇場として作られました

チケットのお申し込みや、詳しいお問い合わせはこちらへ

           予約センター  0120-489-444

           ホームページ  www.shiki.jp/

       

 

310年前の出来事

毎年、12月になると映画やテレビで『忠臣蔵』が上映され、討ち入りのシーンが見られました。12月14日は赤穂浪士討ち入りの日となっているからです。

ホテルから10分の明石町は、前回、書きましたように明治時代は華やかな異国情緒に溢れた町でしたが、それ以前の江戸時代、1650年代には赤穂藩浅野家の江戸上屋敷が置かれていました。『忠臣蔵』の主人公である浅野長矩(内匠頭)はここで1665年に生まれました。

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屋敷跡は現在、聖路加看護大学となっています

浅野内匠頭は幼くして、父、母を失い、9歳で家督を継ぎ、14~5歳で官職を与えられた正に青年(少年)でした。『忠臣蔵』の話は皆さんよく知っていると思いますので割愛いたしますが、小さい頃から責任のある立場にいたため、甘えのない、実直な人物であったようです。

江戸城大廊下(松の廊下)での吉良氏に対する刃傷沙汰は、それまでの氏への遺恨の蓄積であったとされています。

1701年3月14日、午前10頃に事件は起きました。場所が殿中であったため、周囲の人々にすぐに捕えられました。お預けとなる陸奥一関藩、田村家の家臣に午後2時に迎えられ、4時にはお屋敷に着きました。すぐに幕府より目付が参上し、評定を簡単に済ませ、午後6時には切腹を言い渡し,自刃させたのです。

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    自刃した田村家跡地の内匠頭の碑             辞世の句が記されています

一国の大名の事件で、殿中での刃傷とはいえ、わずか8時間余でのお裁き、あまりにも早急で、取り調べの猶予も無く、短絡的な顛末に、理不尽なものを感じざるを得ません。

 

田村家江戸屋敷(現在の港区新橋4丁目)の跡地で和菓子店を営業されている、御菓子司「新正堂」さんでユニークなスウィーツを見つけました。

その名もずばり『切腹最中』です。3月14日に因んで、『忠臣蔵』にまつわる数々のお話が後世まで、このお菓子を通して伝えられれば・・・と願うご店主の義士に対する熱い思いが感じられました。

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          新正堂さん                 赤穂義士の名入りの手ぬぐい

  

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            <1個190円の求肥の入った甘さをおさえたはみ出し餡が特長>

この『切腹最中』のネーミングはやや強烈で微妙ですが、何でもお客様にご迷惑をおかけした時、謝罪を込めたお詫びの品として手土産に持って行かれ名前から笑って許されることも多いとか・・・。

店内には、義士ようかん、どら焼きや大江戸まといなど美味しそうな和菓子がたくさんあります。ご店主の『忠臣蔵』に対する愛情を感じずにはいられません。

詳しくはホームページへ www.shishodo.co.jp/

最後に余談ですがお知らせです。こちら新橋4丁目にある新正堂さんの3ブロック左に、全く新しくなった「東急ステイ新橋」が2014年5月にオープン予定です。東銀座同様宜しくお願いします。

異国であった町

ここ明石町は江戸末期、安政の時代、外国と結んだ開国条約(日米修好通商条約)により、江戸には貿易で来日する外国人の居住地が長崎や神戸のように無かったため、作られた区・外国人居留地でした。

住居の他、学校、教会、領事館、公使館、病院と次々に建てられ、日本の中の異国のような雰囲気であったといわれています。そのため様々な新しい文化が広まっていきました。

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ヘンリーフォールズは英国人の医師、宣教師で布教の傍ら、築地病院を開き、診察にあたりました。

明治8年、ハリスによって麻布とは別に公使館がつくられました。公使館跡にあった小松石の記念碑は今も聖路加病院の中にあります。アメリカを象徴する彫刻で、星、白頭鷲、星条旗(13州)が残されています

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今は、この居留地跡には聖路加病院、看護大学、タワーが建っています。聖路加病院はこの居留地が明治32年の条約改正で廃止され、明治35年米国聖公会のトイスラー氏によって設立されました。

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当時、設立された学校はキリスト教系の他、今は場所こそ移っていますが有名な学校として発展しています。立教学院、立教女学院、青山学院、明治学院、そして慶応義塾などがあります。

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    当時の立教女学院の校舎(銅版画)             立教学院発祥の地の碑

初めてが多い明石町ですが最後に2つのエピソードを紹介します。

ひとつは蘭学事始の地でした。蘭学者、杉田玄白の『蘭学事始』よれば、この地に大分中津藩の江戸下屋敷があり、藩医で蘭学者であった前野良沢がオランダ語の洋書『ターヘル・アナトミア』を初めて翻訳し『解体新書』5巻を完成させたと記されています。

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                          蘭学事始の地の記念碑

もうひとつは、日本の誇る文豪の一人、芥川龍之介の生誕の地であります。

芥川龍之介は当時、明石町の牛乳店の長男として生まれましたが、母親の病気により、幼くして母方の実家、芥川家に引き取られ、母の死後、叔父の養子となります。生まれた年が明治25年3月1日で辰年であったため龍之介と名づけられたそうです。その後は大学で夏目漱石を師事し名作小説を誕生させていきます。

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                     芥川龍之介 生誕の地の案内板                                     

明石町はホテルから約10分です。聖路加病院、聖路加タワーが目印です。

八丁堀パートⅡ

先日、八丁堀を散歩して、江戸時代の地名の由来を紹介しましたが、八丁堀は日本橋などと並んで賑やかな下町でもありました。(本来は武家屋敷の土地でしたが、土地を所有していた武士が商人や一般町民に家屋を貸しており、栄えていたのです。)

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         (八丁堀交差点)                       (亀島橋)

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この日は台風一過できれいな虹が見えました

交差点から亀島川に行く橋のたもとに文化人の足跡を見つけました。まず1人が伊能忠敬です。

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(伊能 忠敬)

伊能忠敬は近代的日本地図作成の基礎を築いた人です。52歳から江戸に出て西洋天文学の勉強を始め、56歳から72歳にわたり、延べ3737日、約4万キロメートルに及ぶ徒歩の日本初全国測量を行いました。「日本沿海輿地全国・実測録」を編纂。1814年、隠宅をここ八丁堀亀島町に移し、4年後亡くなりました。

もう1人は東洲斎写楽です。

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(東洲斎 写楽の顔絵)

江戸時代の浮世絵師。役者絵、相撲絵を数多く制作し、リアルな表情と姿態を描いて、それまでの常識を覆しました。ただ、出生地や本名など不明な点も多く、謎のある人物でした。近年の文献によれば、阿波徳島藩の能役者だった「斎藤十郎兵衛」ではないかといわれています。その人物は八丁堀地蔵橋に住み、58歳で亡くなったと記されているそうです。

そして亀島橋の反対のたもとにも有名人の碑がありました。それは堀部安兵衛武庸の碑です。

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                         (堀部安兵衛武庸の碑)

忠臣蔵で有名な赤穂浪士です。越後の国(新潟県)、中山弥次右衛門の息子で江戸に出て剣術を学び、剣の達人として高田馬場での仇討ちの話は皆知る所です。後に浅野家家臣、堀部弥兵衛の婿養子となり堀部姓に変わります。新宿に住んでいたと言う話は有名ですが、八丁堀には「赤鞘安兵衛」と称して住んでいたとのこと。

武家屋敷だった八丁堀ですが文化人、有名人もたくさん住んでいたのですね。

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