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2013.1112

八丁堀パートⅡ

先日、八丁堀を散歩して、江戸時代の地名の由来を紹介しましたが、八丁堀は日本橋などと並んで賑やかな下町でもありました。(本来は武家屋敷の土地でしたが、土地を所有していた武士が商人や一般町民に家屋を貸しており、栄えていたのです。)

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         (八丁堀交差点)                       (亀島橋)

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この日は台風一過できれいな虹が見えました

交差点から亀島川に行く橋のたもとに文化人の足跡を見つけました。まず1人が伊能忠敬です。

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(伊能 忠敬)

伊能忠敬は近代的日本地図作成の基礎を築いた人です。52歳から江戸に出て西洋天文学の勉強を始め、56歳から72歳にわたり、延べ3737日、約4万キロメートルに及ぶ徒歩の日本初全国測量を行いました。「日本沿海輿地全国・実測録」を編纂。1814年、隠宅をここ八丁堀亀島町に移し、4年後亡くなりました。

もう1人は東洲斎写楽です。

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(東洲斎 写楽の顔絵)

江戸時代の浮世絵師。役者絵、相撲絵を数多く制作し、リアルな表情と姿態を描いて、それまでの常識を覆しました。ただ、出生地や本名など不明な点も多く、謎のある人物でした。近年の文献によれば、阿波徳島藩の能役者だった「斎藤十郎兵衛」ではないかといわれています。その人物は八丁堀地蔵橋に住み、58歳で亡くなったと記されているそうです。

そして亀島橋の反対のたもとにも有名人の碑がありました。それは堀部安兵衛武庸の碑です。

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                         (堀部安兵衛武庸の碑)

忠臣蔵で有名な赤穂浪士です。越後の国(新潟県)、中山弥次右衛門の息子で江戸に出て剣術を学び、剣の達人として高田馬場での仇討ちの話は皆知る所です。後に浅野家家臣、堀部弥兵衛の婿養子となり堀部姓に変わります。新宿に住んでいたと言う話は有名ですが、八丁堀には「赤鞘安兵衛」と称して住んでいたとのこと。

武家屋敷だった八丁堀ですが文化人、有名人もたくさん住んでいたのですね。